トラストサービスとイノベーションのジレンマ

一般財団法人日本データ通信協会 理事長 酒井 善則

 有名なクレイトン・クリステンセン著作のイノベーションのジレンマでは、技術、経営共優れた優良企業が革新的イノベーションの認識が不十分なため滅びるリスクがあることが述べられている。優良企業は技術面、マーケティング面で従来の経験に基づいた改良的手法を用いることが多く、全く異なるイノベーションに乗り遅れる可能性があると指摘されている。多少意味は異なるかもしれないが、技術水準、構成共優れたシステムにおいて、優れているが故に新しい技術、システム構成の導入が遅れる例は数多く見られる。我が国の電話網は、通信品質が優れていると共にISDN、FAX等、提供しているサービスも多彩であり、全国殆どの地域に導入されている。このためにかえってIP網に全て取り変えるのは容易ではなく、多くの過渡的システム、サービスを導入せざるを得ない状況である。

 従来の社会では、各種契約行為等のトラストサービスにおいて紙が中心的役割を果たしてきた。我が国の紙は品質面でも優れ、更に社会的同質性の助けもあり、紙中心のトラストサービスは世界でもトップレベルであろう。トラストサービスの最大のものは紙幣であるが、偽造の困難さでも我が国の紙幣は高い水準であると聞く。更に、紙による契約行為を容易にするため、認証を目的とした印鑑の文化も発達した。実印、銀行印、その他の認印まで印鑑は多様である。近年は金融機関も多額の現金引き出しには慎重で、通帳・印鑑以外各種証明書を要求されるが、以前私は近所の金融機関で多額の現金を引き出す時に、職員が「このお客さんは良く顔を見る人なので大丈夫」と言って認証を済ませたこともあった。紙によるトラスト文化、地域社会の緊密性もあり、自分の財産を、紙である紙幣、金融機関との印鑑、通帳に基づく契約である預金で持つことに、私を含めて多くの日本人はそれ程不安感を持たないのではないか。電子的な契約、認証について必ずしも我が国は導入が早くはないと言われているが、これも紙によるトラストサービスのレベルが高いことに起因するかもしれない。ただこのために、イノベーションのジレンマで指摘されている優良企業の立場ように、紙によるトラストシステムの進んだ我が国が、トラストシステムの電子化に乗り遅れるなることは避けなければいけない。

 ガラケーで有名なガラパゴス化は特定地域に最適化された技術、システムを指している。我が国におけるガラパゴス化は、世界に先駆けて開発した技術に起因するものが多い。ガラケーに貢献したIモードも世界初の携帯によるIPサービスである。国際標準等ができる時期には、既に製品等が開発されている例も多い。ガラパゴス化した技術は、製造企業にとって市場が小さいとともに、国際的にも主流でなくなるため、可能であれば避けることが望ましい。

 前述のように電子的なトラストサービスは我が国が後発のこともあり、ガラパゴス化のリスクは小さいように思える。ただ我が国は紙に基づくトラストサービスが非常に整備されており、その特徴を生かしたサービス開発が望ましい。世界標準にも沿って、我が国固有の文化、システムを生かしたトラストサービスを構築の在り方を検討することが重要ではないかと考えている。